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大阪高等裁判所 昭和58年(う)642号 判決 1985年9月24日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人鶴田啓三及び同竹澤一格の共同作成にかかる控訴趣意書及び控訴趣意補充書各記載のとおりであり、これに対する答弁は、大阪高等検察庁検察官検事大谷晴次作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意第一点(訴訟手続の法令違反の主張)について。

論旨は、原裁判所は、被告人の司法警察員に対する①昭和五六年九月二九日付、②同年一〇月一日付、③同月四日付、④同月八日付(検察官請求証拠番号42の分)、⑤同月九日付、⑥同月一一日付、⑦同月一三日付(所論は二通あるというが、一通しか存在しない。)及び⑧同月一五日付並びに検察官に対する⑨同月六日付、⑩同月一四日付及び⑪同月一六日付各供述調書(いずれも自白調書)を、証拠として採用し、かつ、有罪の認定に供しているが、右のうち、司法警察員に対する各供述調書は、警察官の暴力的・脅迫的取調べの結果得られた内容虚偽の自白を録取したものであり、また、検察官に対する各供述調書は、右警察官の暴力的・脅迫的取調への影響下になされた内容虚偽の自白を録取したものであつて、いずれも任意性がなく、したがつて証拠能力を欠くから、これらを採用して有罪認定に供した原審の訴訟手続は法令に違反している、というのである。

そこで、所論にかんがみ、記録及び原審証拠を調査し、当審における事実取調の結果をも参酌して考察し、以下のとおり判断する。

一原裁判所が、被告人の司法警察員及び検察官に対する所論の供述調書一一通(いずれも自白ないし不利益事実の承認を内容とする。なお、①と③は司法警察員仙石茂(以下仙石という。)立会のもとに同田坂厚(以下田坂という。)が、②と④ないし⑧は田坂が、⑨ないし⑪は検事諸岩龍左(以下諸岩という。)が、それぞれ録取したものである。)を証拠として採用し、かつ、これらを有罪の認定に供していることは所論の指摘するところであるところ、被告人は、原審及び当審各公判廷において、これらの供述調書に記載されている自白は、取調べに当たつた警察官田坂や同仙石らから連日執拗な暴行・脅迫を受けた結果やむなくした任意でない自白である旨、所論に沿う供述をし、かつ、右警察官らから受けた取調べの状況を詳細に述べているが、その供述内容は、当審において取り調べた被告人作成の別紙(一)供述書にまとめられているとおりである。

二これに対し、本件当時大阪府警察本部刑事部捜査第二課に所属して本件につき被告人の取調べに当たつた警察官(巡査部長)田坂は、原審証人として、

「本件の取調べに際し、被告人に暴行や脅迫を加えて自白を強要した事実は全くない。被告人に対する取調べの仕方について、当時弁護人から抗議があつたとは聞いていない。ただ、仙石刑事が行なつた被告人の妻に対する取調べについては、その当時の昭和五六年一〇月六日ころ、弁護人から、参考人なのに取調べがきついという抗議があつた旨、諸岩検事から私の上司に連絡があり、上司から私に話があつた。螢ケ池高架下の工事の話は、本件取調べ中の同月三、四日ころ、被告人のほうから持ち出したものであり、それまでは私を含めて警察の側では右工事に不正があることは知らなかつたから、それ以前の九月二八日の段階で、私のほうから右工事の件を持ち出して被告人を追及するというようなことはありえない。また、被告人が認めたり否認したりを何回も繰り返したので、二度と供述を変えないということを被告人に一筆書かせたことはあるが、その書かせた紙は私のメモ綴に仕舞つておいたものであり、被告人のいうようにそれを取調室の壁に貼つたりはしていない。」旨証言し、田坂と共に被告人の取調べに当たつた警察官(巡査)仙石も、当審証人として、

「被告人に暴行や脅迫を加えて自白を強要するようなことは一切していない。被告人に対する取調方法について弁護人から検事に抗議があつたとは聞いていないし、その点について上司の伊東警部から事情聴取を受けたこともない。取調べ中に被告人が土下座したことは記憶しているが、それは、被告人が、供述をいろいろ変えて申し訳なかつたという意味合いで、自ら椅子を降り、机の横の床に座つて頭を下げたものであつて、私ら取調官のほうから土下座を強要したものではない。念書のようなものを被告人に書かせたことはないと思うし、田坂刑事がそれを壁に貼つていたという事実もない。」

旨証言し、被告人の供述と大きく対立する。

三そこで、取調状況に関する被告人の供述及び田坂、仙石両証人の証言の信用性について検討するに、

1  当審証人鶴田啓三(以下鶴田という。)及び同諸岩の各証言によれば、本件の捜査段階から被告人の弁護人になつていた弁護士鶴田は、昭和五六年一〇月七日に被告人と接見した際、被告人が、取調担当の警察官にひどく怒られ、身体を壁にぶつつけられたり、後頭部を叩かれたりし、恐ろしくてとても本当のことが述べられない、というのを聞き、その言葉や態度から、被告人が警察官から自白強要のための暴行を受けているものと確信し、警察官の上司に抗議する旨被告人に告げたが、被告人が、そんなことをすると更に警察官にどうされるかわからないからやめてくれ、というので、警察に直接抗議することは取りやめ、右接見の直後、本件の担当検事であつた大阪地方検察庁検事諸岩に電話して、「被告人から警察官に暴行されているという訴えがあつたので、府警本部のほうに指示してそういうことのないようにしてほしい。」旨を申し入れた事実、及び、右諸岩検事において、その日か翌日ころ、田坂らの上司である伊東警部に対し、右申し入れのあつたことを伝え、取調状況を問い質したうえ、十分注意して取調べるように告げた事実が認められる。田坂証人も仙石証人も、被告人に対する取調べについて弁護人から抗議があつたということは聞いていない旨証言しているけれども、捜査中の事件について、その主任検事から右認定のような伝達及び下問があつた場合に、それが取調べ担当警察官に伝えられないはずはないと考えられ(ちなみに、鶴田の当審証言によれば、鶴田弁護士が、本件捜査当時、被告人の取調べに関する前記申入れとは別個に、被告人の妻に対する取調べについても、警察官の取調べ態度に不当な点がある旨(検事を介することなく、直接)前記伊東警部に抗議している事実が明らかであるところ、田坂証人も、右の抗議については当時上司が聞かされていたことを認めている。このことに徴しても、主任検事を通しての前記の抗議が、実際に取調べを担当していた田坂らに伝えられることなく処理されたとは到底考えられない。)また、かかる特殊かつ重要な出来事については、その直接の関係者がたやすく記憶を失うとも思われず、してみると、右の出来事を否定する田坂及び仙石両証人の各証言は、殊更に虚偽を述べている疑いが強く、信用し難いものであるといわなければならない。一方、この点に関する被告人の供述は、右供述書にまとめられている内容によつても明らかなように、具体性に富み、それ自体迫真的であるうえ、前記認定の抗議申入れの経緯に関する事実ともよく符合しており、信用性を認めるべきもののように感じられる。そして、以上の検討結果に照らして考えると、昭和五六年一〇月七日の夕方からの取調べの際、田坂及び仙石両刑事から、「お前、弁護士に何を言つた。」「検事さんより上司に六時ころ連絡があり、いつたいどんな調べ方をしているのか、無茶をしているのと違うかと聞かれた。お前の一言でわしら二人がどんな迷惑をするかわかるか。」と怒鳴られ、壁に向いて長時間坐らされるなど、意趣返しの暴行を受けた、という被告人の供述も、事の成り行き上十分ありうるものとして受取ることができ、にわかに虚偽として排斥し難いものがあるというべきであり、このことはまた、被告人の供述のうち、田坂刑事らから、それ以前にも繰り返し暴行や脅迫を加えられて自白を強要されたという部分についても、それがあるいは真実ではないかという疑惑を抱かせるものであるといわなければならない。

2  当審証人森左内の証言によれば、右森が、本件で被告人が大阪府警察本部の留置場に留置されていた期間、その同房者であつた事実及び当時被告人が右森に警察官から乱暴されたと話していた事実が認められるところ、右の事実は、それ自体、被告人が右供述書の昭和五六年九月二七日に関する項及び同年一〇月三日に関する各項において、同房者とのやりとりとして述べている内容の一部を裏付けるものであり、更に、右森証人が、同人には直接関わりのない本件について証人として呼び出され、服役生活の平穏を乱されたことなどを快よしとしなかつたためか、被告人の供述するところの裏付け証言を得ようとする弁護人の主尋問に対し、「答えたくない。」「記憶がない。」などと言つて、できるだけ明確な証言を避けようとする態度に終始しながらも、被告人から警察官に乱暴されたという話を聞いたという点は明確に証言し、しかも、裁判所の補充尋問に答えて、「その人の言うことも、まんざら嘘とは思えなかつた。」旨証言していることは、同証人の証言が、全体としては、被告人の供述内容に対し否定的態度をとるものではなく、むしろ肯定的態度をとるものである証左として注目されるのであり、してみると、同証人の証言は、被告人が右供述書等において同房者とのやりとりとして述べているところの全体の真実性をも、相当程度裏付けるものであるといわなければならない。

3  被告人は、司法警察員田坂に対する昭和五六年九月二六日付弁解録取書の作成経過について、右供述書において、「田坂の上司である松下孝男係長に手を取られて無理矢理指印を押捺させられた。」旨供述し、また、当審第一二回公判期日において、「私がサインするのを拒否していると、その場にいた松下係長が、私の背中をだき抱えるような形で、覆いかぶさるような形で、私の手を持つて一緒にガッと押したために、はずみで指が滑つて二段の指印になつた。」旨供述しているところ、右弁解録取書(当審検察官請求証拠番号1のもの)の被告人の署名押印部分をみると、被告人の署名の直下にまず小さな指印が一個押捺され、更にその下方に、欄外にまたがつてもう一個大きな指印が押捺されており、しかも、下方の指印のうち上方の指印に該当する部分が、白抜きのような形で薄くなつていて、全体として甚だ不自然な指印押捺がなされている事実が明らかであり、右の事実は、検察官側からは、何故右のような不自然な指印となつたかについて、何ら合理的説明がなされていないことをも併せて考えると、前記弁解録取書の作成経過に関する被告人の供述の信用性を多分に裏付けるものであるというべきである。

4  被告人は、右供述書等において、昭和五六年一〇月四日の取調べの際、田坂刑事らから謝罪を要求されて土下座して謝つたこと及びそのいきさつについて詳細に供述しているところ、本件の取調中に被告人が土下座して取調警察官に謝るという出来事のあつたことは、取調官の一人であつた当審証人仙石も証言中でこれを認めている(なお、弁護人は、当審での弁論において、原審証人田坂が右土下座の事実はなかつたと明確に述べ、もつて虚偽の証言をしている、として同証人を非難しているが、同証人は、土下座の点については全く訊ねられておらず、したがつてこれについて何らの証言もしていないのであり、弁護人の右の非難は当たらない。)。仙石証人は、被告人が土下座した理由について、「詳しい経緯は思い出せないけれども、ただ(否認したことが)申し訳なかつたという意味合いで、座つた椅子から下りて机の横に土下座して頭を下げたと記憶している。それに対し、井上係長が、反省して分かつてくれればいいんだよと言つた。」とあたかも被告人の自発的行為であつたかのような証言をしているが、およそ土下座して謝るという行為は、現代社会においては、余程のことがなければ行なわれない甚だ屈辱的な行為であつて、いかに被疑者として拘束されている身であつたとはいえ、被告人のように、大学を出て長年大阪府の吏員を務め、齢すでに四七才の思慮分別ある者が、そのような行為に出るについては、よくよく事情があつたはずであり、この見地から検討すると、仙石証人の述べるところはいまだわれわれを納得させるに十分でなく、被告人が詳細に供述しているような一連の経過のほうが、はるかに、土下座という異常な行動に出た理由として合理的、説得的であり、その信用性を窺わせるものであると考えられる。

5  被告人は、昭和五六年一〇月八日の取調べの冒頭で、田坂刑事から、二度と供述を変更しない旨の念書を書くよう要求され、同刑事の面前でこれを作成したところ、同刑事はそれを取調室の壁に押しピンで貼り付け、以後取調べの最終日までそのまま貼り付けていた旨供述し、田坂も原審証人として証言した際、壁に貼り付けたことは否定しながらも、右念書を書かせたこと自体はこれを認めている。捜査官が、取調べ中の被疑者に対し、供述調書とは別に、犯罪を立証する資料としてはおよそ無意味な右のような念書を要求し、これを書かせるというが如きは、あまり例を聞かない事柄であり、本件でかかる念書の徴求がなされたという事実は、被告人に対する取調べが円滑に進行したものでなく、捜査官が被告人の自白の任意性あるいは信用性に少なからぬ不安を抱いていたことを示すものにほかならないと考えられ、そうだとすれば、右念書を作成した経緯について被告人が詳細に述べるところもまた、にわかに排斥し難いものがあるといわなければならない。

6  被告人は、右供述書等において、昭和五六年九月二八日夜の取調べの際、被告人が田坂刑事らの暴行にも堪えて沈黙を続け、自白をしないでいると、田坂刑事が、阪急螢ケ池高架下連絡通路補修工事の話を持ち出し、「螢ケ池高架下の工事では何があつた。上司は皆んなこのことを知つているのか。この件で同僚に迷惑がかかつてもええのやなあ。職場に手錠をかけて連れて行つてやろうか。お前の子供の行つている小学校にも捜査に行つて、子供が二度と学校に行けんようにしてやる。」などと脅迫して自白を迫つた旨供述し、これに対し、原審証人田坂は、「螢ケ池高架下の工事の件は、被告人のほうから言い出したものであり、被告人から聞くまで私は知らなかつた。警察としても、私が被告人の話を伝えるまで知らなかつたと思う。被告人がその話を持ち出したのは、弁護人が二回目の接見に来たあとの一〇月三、四日ころのことであり、被告人が『奥村隆(以下奥村という。)が被告人らの不正を知つているので、奥村自身が横領して使つた金を被告人に渡したといつて罪をかぶせているのだ。』と言うので、その不正とは何かと訊くと、螢ケ池の件だと言つたものである。したがつて、被告人が本件について自白した九月二八日の取調べの際に私の方から右工事の話を持ち出して被告人を追及したということは全くない。」旨証言する。

しかしながら、右田坂証言は信用し難いものであるといわなければならない。けだし、原審及び当審で取調べた関係証拠によれば、本件の贈賄者とされる奥村は、本件当時の勤務先である山王商事株式会社(以下山王商事という。)から、昭和五五年一二月二〇日ころ工事代金一六万円を、また、昭和五六年三月二三日ころ工事代金四〇万八、〇〇〇円をそれぞれ業務上横領したとして告訴され、昭和五六年九月一六日ころ大阪府平野警察署に逮捕され、引き続き取調べを受けたこと、及び、奥村が、前記各横領金の使途について、それらの一部を被告人及び原審相被告人神舎渉(以下神舎という。)に贈賄した旨供述し、それが本件の捜査の端緒となつたものであることが認められるところ、当審で取調べた奥村の司法警察員に対する昭和五六年九月一八日付供述調書写によれば、奥村が、同日平野警察署の捜査官に対し、「昭和五六年二月ころ、松本主査(被告人のこと)から、地区住民から至急に施工してほしいと要求されている螢ケ池高架下の工事は内緒の工事だが見積つてほしいと頼まれて六二万円の見積りを出したところ、松本主査は、大共道路設備株式会社(以下大共道路設備という。)がガードレールを設置したことにして金を出すと言われ、実際には一年前に設置済みの勝尾寺から茨木へ二キロメートル下がつた道路に設置されていた防護柵を設置したという架空工事をさせてもらつたようにして、実質一二万円を儲けさせてもらつた。」旨供述している事実が明らかであり、また、当審で取調べた昭和五六年九月二八日付読売新聞夕刊によれば、その夕刊に「ガードレール補修工事をめぐる大阪府池田土木事務所の汚職事件で、大阪府警捜査二課と平野署は、二七日から同事務所道路維持係主査松本貞夫ら三人の本格的な追及を始めたが、別の高架下工事でも、ガードレールが未完成なのに、他の完成地区の写真をはつた書類でパスさせ、工費を払うなどの便宜を図つていたことがわかつた。捜査二課は同日、池田土木事務所と工事を請負つた大阪市平野区加美南五、大共道路設備会社など五か所を贈収賄容疑で捜査した。問題の工事は、今年二月初め、大共道路設備が五百十万円で受注した池田市螢池の中央環状線の螢池高架下ガードレール設置工事。同社が大阪市阿倍野区旭町三、山王商事に下請けさせ、当時の営業員奥村隆(贈賄で逮捕ずみ)が担当していた。奥村は工費を早く受け取ることができるように松本に頼み込み、未完成なのに工費請求の書類に勝尾寺―茨木間の新設ガードレールの写真を添付、松本はこれを黙認していた。松本は昨年一二月下旬奥村から府道池田―亀岡線などの工事をめぐり、現金一〇万円を受け取つた疑いで逮捕されたが、捜査二課は高架下など他の工事についてもワイロを受け取つていたのは間違いないとみている。」という記事が掲載されている事実が認められるが、右の各事実によれば、平野警察署が昭和五六年九月一八日の時点ですでに螢ケ池高架下の工事に不正があるらしいことを探知していたこと、及び大阪府警捜査二課のほうでも、遅くとも同月二七日までには、右工事に関する具体的容疑を被告人に向けていたことが明らかであり、してみると、一〇月三、四日ころに被告人のほうから持ち出すまでは右工事の件を知らなかつたという田坂証言は明らかに虚偽であるといわなければならない。そして、前記のような新聞報道がなされている事実に照らすと、田坂刑事らが、九月二八日の取調べにおいて、螢ケ池高架下工事の件を持ち出し、これとからめて本件について被告人を追及することは十分考えられるところであり、当審証人鶴田の「被告人との第一回接見(昭和五六年九月二九日午後一時過ぎの一五分間)のとき、被告人から、刑事に螢ケ池工事の件が公文書偽造になるといわれているがそうなのかと何度も質問された。」という証言をも併せて考えると、被告人の前記供述こそ、以上のような関連諸事実とよく合致し、信用するに足るものというべきである。

7 以上、取調状況に関する被告人の供述のうちいくつかの部分を取り上げ、個々的に、その裏付証拠の有無を調べ、被告人の供述と捜査官である田坂及び仙石両証人の各証言とを対比するなどして、これらの信用性を探つて来たが、ここで、更に、右供述及び各証言をそれぞれ全体的に検討してみるに、当審で取調べた大東勝利作成の照会回答書をはじめ原審及び当審で取調べた関係証拠によれば、被告人の大阪府警察本部における留置取調状況や供述調書の作成状況は別紙(二)記載のとおりであるところ、被告人の供述内容は、右別紙(二)に示した出入監の時間的状況や供述調書の作成状況、更には各供述調書にみられる供述の変遷状況とよく合致し、正確な記憶に基づくものであると認められ、しかも、極めて詳細かつ具体的であるとともに、原審公判段階以来細部に亘るまで一貫性を保つてもおり、虚構の事実を言い立てる者がかくも詳細、具体的で一貫性のある供述をすることはまず不可能であると考えられるのであり、また、記録及び関係証拠を精査しても、被告人の供述内容に積極的に虚偽ないし誤りとすべき点を見出すことができないのである。これに対し、捜査官である田坂及び仙石両証人の各証言は、一問一答形式による供述としてなされたという制約があるとはいえ、被告人が述べている取調べを不当とする諸点について、弁護人から具体的に質問された際、概ね簡単な言葉で否定するのみであつて、いかにして被告人から任意の自白を得るべく努めたかなど、自らの行なつた取調べの実情を積極的、具体的に明らかにしようとする態度に欠けていたものといわざるを得ず、被告人の供述によつて投ぜられた取調状況に関する疑惑を晴らすには到底十分でないとせざるを得ない。

右1ないし7で検討した結果によれば、取調状況に関する被告人の供述は、信用性が高く、これをたやすく排斥することをえないものであり、これに対し、田坂及び仙石両証人の各証言のうち右供述に反する部分は信用性を認め難いものであるといわざるをえず、したがつて、被告人に対する警察官の本件取調べは、被告人が述べるとおりの状況のもとで行なわれた疑いが強いといわなければならない。

四してみると、被告人の司法警察員に対する前記①ないし⑧の各供述調書については、いずれもその作成過程において取調官による暴行及び脅迫が行なわれたのではないかとの疑いがあり、このことは、ひいては右各供述調書に記載されている被告人の自白ないし不利益事実の承認が任意になされたものでない疑いをもたらすものであつて、これらの供述調書は、いずれも刑事訴訟法三一九条一項により、本件公訴事実を認定するための証拠とすることができないものであるといわなければならない。また、被告人の検察官に対する前記⑨ないし⑪の各供述調書も、被告人の供述に照らしてみるとき、右のような暴行及び脅迫による抑圧された心理状態の継続下に作成されたものである疑いがあり、同様に証拠能力を否定すべきものである。そうすると、証拠能力のないこれらの供述調書を採用して有罪の認定に供した点で原審の訴訟手続には法令違反があり、右各供述調書の犯罪立証上の重要性にかんがみると、右の違法が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

控訴趣意第二点(事実誤認の主張)について。

論旨は、被告人が原判示のように奥村から現金一〇万円の供与を受けた事実はないのに、これを積極に認定した原判決は、信用性を欠く奥村の証言を誤つて信用するなど証拠の価値判断を誤つた結果、事実を誤認したものであるというのである。

そこで、所論にかんがみ、記録及び原審証拠を調査し、当審における事実取調の結果をも参酌して考察し、次のとおり判断する。

一原審及び当審で取調べた証拠のうち、被告人が原判示の犯行を犯したことを認めるべき直接証拠は、被告人の前記一連の自白調書のほかは、本件の贈賄者とされる奥村の原審及び当審における各証言並びに奥村の共犯者とされる藤井常次郎(以下藤井という。)の検察官に対する昭和五六年一〇月九日付及び同月一五日付各供述調書のみであるところ、右奥村の原審及び当審での各証言(これらを以下奥村証言という。)の要旨は、

「私は、大阪府池田土木事務所から府道池田亀岡線ほか二路線の防護柵補修工事を請負つた大共道路設備の下請である山王商事の従業員として、右工事に従事していたところ、被告人らによる具体的な工事個所の指定が小刻みであつたりして、工事が順調に進捗せず、資材の発注などに支障を生じたりしたので、工事個所の指定等を迅速円滑にしてもらうほか、同工事の監督等に手心を加えてもらおうと考え、昭和五五年一一月一〇日ころ、右大共道路設備の取締役藤井に本件贈賄の相談を持ちかけたところ、賛成を得、協力してくれることになつたので、同人と共謀して現金一〇万円を被告人に贈ることに決めた。その当初の話合いでは、山王商事が大共道路設備から発注を受けて行なうチャッタバー撤去工事の代金一六万円を私において取得したうえ、そのうちの一〇万円を贈賄金に充てることとし、したがつて、贈賄の時期も右代金が下りる同年一二月二〇日ころにしようと計画していたが、同月半ばころになつた際、私は年末も近づいたし、工事も終わりかけたので、早く被告人に渡さないと渡す機会がなくなると考え、急拠自分の手持金五万円に妻奥村春代から借用した約五万円を合わせて一〇万円を捻出し、それ(一万円札一〇枚)を茶封筒に入れ、いつでも渡せるように作業ズボンの後ろのポケットに二つ折りにして入れて持ち歩いていた。当時私がつけていた工事日報によると、大阪府豊能郡豊能町川尻の通称高山口にある福井藤太郎(以下福井という。)宅の前にガードレールを設置したのは同年一二月二〇日となつているが、被告人に右一〇万円を渡したのは、右のガードレールを設置した前日と記憶しているから、同月一九日に間違いない。確かその前日である一八日の午後、被告人から、『高山口の民家の前のガードレール設置個所を決めたいので、明日午前九時半ごろまでに役所に来てくれ。』という連絡があつたので、翌一九日、会社の自動車(シルバーメタリックのスカイライン、ライトバン)を運転して午前九時前後ころ池田土木事務所に被告人を迎えに行き、まもなく被告人を助手席に乗せて二人で高山口に向い、午前一〇時前後ころ現場に着き、被告人が福井方のおばあさんの希望を取り入れてガードレールの設置個所を決め、私がスプレーで印をつけた。一〇分か一五分くらいでその作業を終わり、車のところに戻つてそれに乗り込む直前、私は一〇万円を入れた茶封筒を取り出し、被告人に差し出して、『これ、会社から預つてきました。』と言つたところ、被告人は、変な顔をして躊躇していたが、すぐ受取つてくれた。そのあと車で池田土木事務所に戻り、被告人を降ろして別れた。」

というものであり、藤井の検察官に対する前記各供述調書の内容は、奥村証言に沿い、同人と本件贈賄の共謀を遂げたことを認めるものである。

二奥村証言は、その内容が、詳細で具体性に富み、原審及び当審公判廷において再三にわたり追及的尋問に曝されたにもかかわらず一貫して維持されていること、関係証拠を精査しても、右証言を虚偽であると断定するに足る証拠は見出し得ず、却つて右証言を部分的に裏付ける内容の証拠も存することなどに徴し、その信用性をたやすく否定し難いものであり、右証言と原判決の挙示する他の裏付証拠とによれば、原判示事実はこれを肯認すべきもののように思われないでもない。

所論は、(1)奥村証言にいう贈賄の動機は、右池田亀岡線ほか二路線の防護柵工事がそもそも補修工事であつて、指示が小刻みになつたりするのは当初から予想されていたことや、被告人が、右工事の責任者ではあつても、日常現場で指示監督する立場にはなかつたことなどに徴し、動機として薄弱であり、不自然、不合理である。(2)贈賄者は、通常、いきなり金銭を贈らず、その前に食事を共にしたり、酒食のもてなしをするものであり、奥村が被告人にいきなり現金を渡したと言つているのは経験則に反し不合理である。(3)同人が用意した贈賄金を毎日着用しているズボンの後ろポケツトに入れて保管していたというのは不自然である。(4)同人が贈賄金を被告人に渡したという場所についても、人目に触れない車内などで渡す機会はいくらもあつたはずであるのに、わざわざ他人の目に触れる戸外で、しかも福井方の家人が見ているかも知れない場所で渡したというのは不自然、不合理である、といつて奥村証言の信用性を弾劾する。しかしながら、奥村証言が贈賄の動機として述べるところは、所論のいう工事の性質や被告人の立場を考慮しても、十分贈賄を発意させる事情たるに足ると考えられるから、これを不自然、不合理であるという所論には同調し難く、また、贈賄に至るまでの経過、贈賄金の保管方法及び贈賄の場所について奥村証言が述べるところは、たしかに贈賄を図る者の行動として異例であると感じられはするけれども、右証言の信用性を否定すべきほど不自然あるいは不合理であるとは思われないのであり、この点の所論にも同調することはできない。

また、所論は、高山口の福井宅前のガードレール設置工事(以下福井宅前ガードレール工事という。)は、奥村証言のように昭和五五年一二月二〇日に行なわれたものではなく、同月一二日にはすでに終了していたから、「右工事を行なつた同月二〇日の前日である同月一九日に被告人に現金一〇万円を渡した。」旨の奥村証言は信用性を欠くと主張する。しかしながら、原審及び当審で取調べた関係証拠を精査しても、福井宅前ガードレール工事が所論のように昭和五五年一二月一二日までに終了したものと認めるには足りず、この点に関する奥村証言を誤りであると断定することはできない。すなわち、

(一)  福井宅前ガードレール工事が行なわれた時期に関する証拠のうち、所論に沿う主な証拠は、いずれも池田土木事務所の職員である原審証人落合勝(以下落合という。)及び同神舎の各証言であるところ、落合の証言は、「大共道路設備から提出された工事月報(原審弁証28)によれば、高山口のガードレール工事は昭和五五年一二月一二日に終わつている。」というものであるが、工事地図(原審弁証25)、出来高図(同26)、池田亀岡線外二路線防護柵設置工事表写(同27)をはじめ関係証拠によつて明らかなように、右池田亀岡線外二路線防護柵設置工事は、工事場所が各所に分かれており、そのうち工事番号11の分が高山口の工事であるが、問題の福井宅前ガードレール工事は当初右高山口の工事にも含まれておらず、たまたま同年一二月五日午後四時五分ころ、福井宅の屋根の庇が大型冷凍車によつて壊されたため、その後急拠右高山口工事の追加工事として福井宅前にもガードレールを設置することが決まつたものであつて、落合証言が根拠とする工事月報の一二月一二日欄にある「⑪ガードレール設置、三〇・五メートル」という記載は、前記出来高図の記載などと対照すると、確かに福井宅前の追加工事をも含めたものと解されるけれども、落合証言にあるとおり右工事月報が昭和五六年三月二〇日以降に池田土木事務所へ提出されたものであることや、それが下請工事担当者である奥村の作成した資料に基づいて作成されたものと推測されることなどから考えると、右工事月報の正確さ自体に疑問があり、一二月一二日に終わつたのは本来の高山口工事だけではなかつたかとも思われ、落合証言はにわかに採用することができない。次に神舎の証言は、「昭和五五年一二月初めころの朝、バスで出勤する途中福井宅の屋根が壊れているのを見、そのことを役所で被告人に伝えた。その後福井宅前にガードレールを設置することになり、同月九日に私、被告人、落合、佐藤及び奥村らでその現場へ行き、福井の家人の要望も聞いたうえでガードレールの設置場所を決め、奥村がスプレーで印をつけた。この日が一二月九日であることは、私の日誌(原審弁証32)の同日欄に大共道路とあるので間違いないと思う。その後右工事の打合わせはしていないが、すぐ工事にかかり、同月一二日ころには済んだと思う。なぜそう思うかというと、私の日誌の一二月八日から一二日までの欄にいずれも大共道路という記載があるのに、同月一三日欄にはないことや、私はいつもその現場を通つているが、早いとこやつたなあと思つた記憶があることからである。」というものであるが、大共道路設備が請負つたガードレール設置工事がその当時各所にあつたことからみて、右日誌の記載は必ずしも福井宅前ガードレール工事の終了時期を定める根拠とはなし難く、しかも、当審証人福井の証言によれば、右ガードレールの設置場所を決める際に立合つた同人の内妻石橋艶子は、同年一二月九日には朝早くに家を出て兵庫県の古川へ芝居見物に出かけ、翌日まで不在であつたことが明らかであるから、同日に設置場所を決めたという神舎証言は誤つているというほかはなく、その他同証言が記憶に基づくものとして述べている部分も裏付けを欠くとともに説得力にも乏しいものであつて、結局同証言もまた採用し難いものといわなければならない。なお、柳田スチール株式会社作成の売約票写(原審弁証33)も、被告人の当審供述等に照らして所論に沿う証拠であるとは認め難く、他に所論を肯認すべき証拠を見出すことはできない。

(二)  次に、福井宅前ガードレール工事の実施時期に関し奥村証言に沿う証拠について検討するに、(イ)まず、奥村証言がその根拠とする工事日報(原審検証97)には、その昭和五五年一二月二〇日付の分に福井宅前ガードレール工事のうちコアードリルによる穴明けをした趣旨の記載があるが、右工事日報の同日分にはそれと並んで「妙見口4M、5Mレール取付ケスル」との記載も存するところ、右妙見口の工事とは前記工事表(当審弁証27)に記載されている工事番号14の国崎野間口線の工事であること、及び同工事は当審弁証28の工事月報によれば同月一八日に実施されたことになつていることは所論の指摘するとおりであり、前記工事日報と右工事月報のいずれが正しいかは分明でないけれども、どちらも奥村が作成したにひとしいことを考えると、少くとも前記工事日報の正確性、信用性には疑問の余地があるというべきである。(ロ)福井宅前ガードレール工事を実施した熊田一男の作成にかかる出面表(原審検証89ないし91)の昭和五五年一二月二〇日欄には、同日に同人の息子熊田富男ら三名が右工事を行なつた趣旨の記載があり、右熊田富男も、原審証人として、もつぱら右出面表の記載を根拠としてではあるが、右工事を行なつたのは右同日である旨証言している。しかし、右出面表には、工事毎に後日の記載予定部分であると思われる余白を不自然な形でとつてあつたり、従前の記載が判らないような方法で抹消・訂正がなされていたり、同一人が或る日時に二つの現場に重複して行つているような記載がなされていたり、前記昭和五五年一二月二〇日欄に記載されたガソリンの価格が、当時のものでなくて昭和五七年ころの価格であるなど種々不審な点が見受けられることは所論のいうとおりであり、右出面表が本件起訴からかなり後の昭和五七年六月五日に至つてはじめて検察官に提出されている事実をも併せ考えると、所論が右出面表は本件起訴後に作成されたのではないかと疑うのも無理からぬところと思われるのであつて、少なくとも右出面表及びこれを根拠とする右熊田証言の正確性、信用性には疑問を抱かざるをえず、これらをもつて福井宅前ガードレール工事が昭和五五年一二月二〇日に行なわれたことの確証とすることはできない。(ハ)福井の内妻石橋艶子は、検察官に対する供述調書において、「同年一二月五日の朝大型冷凍トラックに屋根を壊された。その翌日の午前中、池田土木の人と請負の人、四、五人が来て、ガードレールをつけてくれることになつた。その翌日か二日後の午前中に神舎さんら四、五人がまた来て、スプレーのようなもので道路に印をつけていつた。その四、五人の中に被告人や請負の人もいた。その後大工さんに頼んで同月一二日ころから四、五日かかつて屋根を修理した。この修理が済んで三、四日経つたころ、被告人と奥村が来てスプレーで印をつけて帰つた。その時刻は、正確ではないが午前一〇時半か一一時ころと思う。この時私は、出入口は二か所あるので、そこはあけておいてほしいと言つた。ガードレール工事は、その翌日ころに道路に穴あけをし、三日ほどかかつて完成したと思う。一二月二〇日か二一日ころにガードレールをつけてくれたと思う。」旨供述し、原審証人としても、「屋根の修理は一二月一〇日過ぎからやつてもらつた。二日位かかつた。屋根が仕上つて二、三日後に、監督さんと請負つた人が、二人で、白いライトバンでまた測りに来た。一〇分か一五分位いた。その来た人は被告人とは違うようにも思う。一二月二〇日ころにはガードレールは仕上つたと思う。」とするほかは同旨の証言をしている。右石橋は明治四五年四月生れの老齢者であり、屋根を壊わされたのは午後四時過ぎであるのにこれを朝であると述べているなど、その記録の正確性にはかなり疑問があるが、そのような者でも、自宅の屋根の修理とガードレール工事との前後関係(この点、神舎証言は、「福井方では屋根はガードレールが出来てからなおすと言つていた。屋根は一二月二〇日前後になおつたと思う」といつているが、信用し難い。)や、自宅前のガードレール工事が何日かかつたか(この点、奥村証言や右熊田証言は一日だけで完成したというが、右奥村作成の工事日報の昭和五五年一二月二〇日欄に工事内容として「コアードリルにて穴明けする」とのみ記載され、レール設置の点は記載されていないことに徴しても、右各証言は疑わしい。)などについては、あまり思い違いはしないのではないかと思われ、当審証人福井が、「自宅前のガードレール工事は、一日に一、二時間ずつ行われて三日かかつている。工事ができて、艶子とこれで安心やなと話合つたのは一二月二五日過ぎだつたと思う。」旨証言していることをも併せ考えると、右ガードレール工事が仕上つたのは一二月二〇日ころであるという右石橋の供述は、当たらずといえども遠からずではないかと思われ、少なくとも落合証言や神舎証言よりは信用性において勝るもののように思われるのである。なお、以上のほかには右工事がなされた日についての確証は存しない。

してみると、福井宅前ガードレール工事が所論のように昭和五五年一二月一二日までに終了していたと認めるには証拠が十分でないと同時に、奥村証言にあるように右工事の行なわれたのが同月二〇日あつたとすべき確証もないけれども、そのころであつたように推測することを可能とする有力な証拠は存するから、所論のようにこの点に関する奥村証言を誤りであるとしてその信用性を否定することは困難であるといわなければならない。

三しかしながら、更に仔細に検討すると、奥村証言にも種々疑問とすべき点があり、これに信用性を認めて有罪認定の証拠とすることは躊躇せざるを得ないように思われる。すなわち、

(一) 当審において弁護人の請求により取調べた奥村の検察官(四通)及び司法警察員(一一通)に対する供述調書をはじめ関係証拠によれば、奥村は、捜査段階の初期においては、本件贈賄金は、チャッタバー撤去工事代金一六万円を受領したのち、そのうちの一〇万円を充てた旨供述していたが、のちに公判段階での証言にあるとおり、チャッタバー代金が支払われる以前に、自己の手持金と妻から借りた金とによつて一〇万円を捻出し、これを本件贈賄金に充てた旨供述を変更し、これに伴い、当初は昭和五五年一二月二三日ころであるとしていた被告人への贈賄日についても、同月一九日ころであると供述を変更している事実が認められるが、贈賄というような軽からざる罪を犯した者が、贈賄金の調達方法や贈賄の実行日の如き重要事項を間違うというのは甚だ不審であり、本件の発覚端緒が、さきに控訴趣意第一点について判断した際に示したとおり、右チャッタバー撤去工事代金などの業務上横領容疑で取調べを受けた奥村がした横領金の使途の説明にあつたことなどから考えると、奥村としては、右横領金を被告人への贈賄金に充てたと説明した関係で、贈賄を実行した日についても、必然的に右工事代金が支払われた一二月二三日ころとせざるを得なかつたが、その後捜査が進み、関連工事の日取りなどが明らかになつた結果贈賄の実行日を一二月二三日としたのでは具合が悪くなつて、これを同月一九日と変更したところ、これまた必然的に贈賄金の出所を他に求めざるを得なくなり、この点についても前記のとおり供述変更を行なつたものではないかと推測されるのであり、この推測を押し進めて行くと、本件贈賄についての奥村の供述は、横領金の使途を言いつくろい、右横領に伴う自己の民刑両面にわたる責任を軽減するためのものに過ぎず、実際には本件贈賄は行なわれなかつたのではないかという疑惑さえ生じさせるのであつて、右変更後の供述にいう贈賄金の捻出方法自体甚だ不自然でにわかに信用し難いこと(原審証人奥村春代は、当時夫に五万円を貸した旨証言しているが、右貸与は事実であるにしても、それが本件贈賄金には充てられず、奥村において他に使用したのではないかとも疑われる。)を併せ考えると、奥村証言は、全体としてその信用性に疑問があるとしなければならない。

(二) 当審で取調べた大阪市経理局長作成の照会回答書(当審弁証24)及び同市土木局長作成の送付嘱託回答書(同26)によれば、奥村が昭和五五年一二月一九日の午前一一時三〇分に大阪市北区梅田一丁目二番大阪駅前第二ビル六階大阪市土木局で行われた工事入札に参加している事実が認められ、また、山王商事の金銭出納帳写(当審弁証5)及び「高速道路通行券並びに出金伝票等綴」写(同6)によれば、山王商事において、右同日付で、奥村が右会社事務所に近い地下鉄天王寺駅から、前記大阪市土木局に近い地下鉄西梅田駅まで、地下鉄を往復使用し、その料金を支出した旨の会計処理がなされている事実が認められるところ、奥村は、捜査段階においても原審公判廷においても右入札参加の事実を全く供述しておらず、当審公判廷において、自らの署名押印のある入札関係書類を提示されてはじめて、今記憶が甦つたとして右入札参加の事実を認めたうえ、その日は高山口で被告人に贈賄し、池田土木事務所で被告人と別れたのち、車で直接入札場に赴き、かろうじて間に合つた旨証言している。当審において、検察官及び弁護人は、それぞれ奥村証言のいう高山口出発時刻から考えて、車で入札に間に合うことができるかどうかについて主張立証を試みているが、当裁判所としては、その点については、道路の混み具合によつて一概には言えないものの、それが不可能であると断定することまではできないと考えるけれども、そもそも奥村が、工事入札という同人の職務上最も重要な、しかも時間厳守を要求される用務がありながら、なぜその日に、本件贈賄のために、必ずしも時間的見通しのはつきり立たない遠距離の高山口まで出掛けなければならなかつたかは、大きな疑問とせざるを得ず、また、同人が当審に至るまで右入札参加というような重要事項について全く述べないままで来たことも甚だ不審であり、奥村には捜査段階の当初から現在に至るまで、およそ昭和五五年一二月一九日の自己の行動についての具体的記憶は全く無いのではないかという疑いさえ抱かれるのであつて、前記地下鉄を利用した旨の会計処理がなされている事実をも併せ考えると(奥村自身は、当審において、交通費などの伝票は、後日にまとめて記載し処理することがあり、前記のような会計処理も、必ずしも当日地下鉄を利用したことを示すものではない旨弁解しているが、にわかに措信できない。)昭和五五年一二月一九日の行動に関する奥村証言は、本件贈賄の実行の点を含めて、信用性に疑問があるというべきである。

(三)  被告人は、原審第一九回及び当審第一一回各公判廷において、昭和五五年一二月一九日の自己の行動につき、「いつものように午前九時に出勤し、九時一五分ころから当日行なうことを担当者と打ち合わせていると、その最中に宮川市会議員から五月丘のバス停の移設の件で電話があり、約一五分間話をした。そのあと右バス停の件で現場担当者と協議したうえ、阪急バス石橋営業所の藤田登助役に電話をし、『宮川議員に怒られたのでバス停を元の位置に戻してほしい』と要望し、一〇分か一五分話を続けた。その際藤田助役からは、バス停の道路の舗装ができれば連絡してほしいと言われたので、続いて舗装工事を担当している南組に電話し、バス停付近の舗装工事はいつできるのか、完成したら報告せよと伝えた。そのあと辻田利秋用地係長に、応接セットで二、三〇分、前日に電々公社と行なつた道路境界杭費用負担の交渉の経過について説明などをし、次いで松尾工務課長の所に行つて一五分から二〇分位同様の説明をし、更に管理係の滝北主査の所へ行き、伊丹豊中線の道路拡張に伴う電柱移設の件について相談した。そのあとは自分の机で事務を執つたが、途中、南組の森脇から電話が入つたり、八木技師が忘年会の会費を集めに来たりした。そこで大体昼になり、正午少し前に井上係長らと外の鳥道楽という店へ食事に行き、戻つていつものように梶並係長と碁を打つた。午後もずつと事務所にいて執行調書などを書いていた。」旨供述し、その裏付け証拠としては、原審証人藤田登の「昭和五五年一二月一九日に被告人から電話があつた。その時刻は、前日の勤務者からの引継ぎを終つて五分か一〇分位経つたころと記憶しているので、午前九時半ころと思う。用件は五月丘小学校前のバス停を工事のため移動してあつたのを戻す件だつた。電話で被告人と話合つた時間は五分以上かかつたと思う。」という証言、右藤田作成の引継と題する書面(被告人から右電話連絡があつた旨記載してあるもの)、原審証人辻田利秋の「同月一九日に被告人から、前日電々公社へ行つた結果の報告を受けた。その時刻は午前中であつたと思うが、それは、松尾工務課長のメモに午前中とあるので、そう思つている程度のことである。」旨の証言、同松尾治次の「同日私は午前九時一五分に出勤して、すぐ私の机の右の応接セットで森部長と小一時間話した。その話が終ると、待つていたかのように被告人が来て、私に電々の件について報告した。報告した時間は一〇分足らずだつたと思う。そのあとの被告人の行動は知らない。」旨の証言、及び右松尾の手帳写(昭和五五年一二月一九日午前の欄に「一七三号拡巾について別宮貞夫氏の件、市部長、酒井次長、原園主幹、高田主事と打合せ。松本主査より桜塚電々の用地交渉について電々主張の杭代についてきく(辻田係長了解とのこと)。」という記載があるもの)があり、かつこれらに尽きるところ、右藤田証言は時刻の点についてもかなり信用性の高いものであると認められ、したがつて右証言により、被告人は昭和五五年一二月一九日朝出勤してから同日午前九時半ころまでは池田土木事務所にいたことが明らかであるというべきであるが、右辻田及び松尾の各証言並びに右松尾の手帳は、いずれも時刻の点で信用性に乏しいため、被告人が同日の午前中右事務所にいたことの確証とすることはできず、しかも、当審証人松下孝男の証言によれば、池田土木事務所から高山口までの距離は約一二・二キロメートルで、車で行けば二十数分で行けることが明らかであり、したがつて、時間的な面だけでいえば、被告人が午前九時半過ぎに池田土木事務所を出発して高山口に行き、奥村証言のいうようにガードレール設置場所を決めて右事務所に戻つたうえ、午前中に右辻田及び松尾に前日の交渉の件を報告することも可能であると考えられるから、前掲各裏付け証拠をもつてしても被告人のアリバイの確証とするには足りず、被告人の右供述もまたアリバイの確証とすることはできない。とはいえ、被告人の右供述は、詳細かつ具体的であるうえ、部分的であるにせよこれを裏付ける証拠も存し、被告人が同日に池田土木事務所を離れて奥村とともに高山口へ行つたようなことはないのではなかろうかという疑問を起こさせるには十分なものであつて、同日の被告人の行動についての右のような被告人の供述や右裏付け証拠と対比するとき、奥村証言の信用性に対する疑問は一層深まらざるを得ない。

四次に、本件贈賄の共犯者とされる藤井は、原審及び当審証人として、「私は、奥村から、被告人を誘つてごちそうするとかの話を冗談まじりに聞いたことはあるが、被告人に賄賂を贈ることについて奥村から相談を受けたり、同人とその共謀をしたようなことは全くない。本件で取調を受けた際、私は捜査官に対し共謀を認める供述をしたが、それは腰痛の持病があつて長時間の取調べに耐えられなかつたのと、勤務先の大共道路設備が大阪府や大阪市の指名業者であり、私の裁判が長引けばその間指名停止が続き、得策ではないというようなことから、捜査官に迎合して虚偽の自白をしたものであり、また、罰金二〇万円の略式命令を受けて確定させたのも、今更争つてみても、すでに新聞報道によつて世間に流された汚名を拭ぐいきれるものではなく、早く忘れてしまいたかつたからである。」旨供述しているところ、藤井の右証言は、同人の真摯な供述態度とあいまつて、説得力に富み、首肯すべき面が多いと思われるのであつて、右証言と対比して、同人の検察官に対する前記各供述調書には、その信用性に大きな疑問があるといわなければならない。

五以上のとおりであつて、奥村証言及び藤井の検察官に対する各供述調書は、いずれもその信用性が疑わしく、これらをもつてしては、被告人の公判段階における供述を排斥して本件賄賂交付の事実を認めるには到底十分でないとせざるを得ず、その他、記録及び原審証拠を精査し、当審における事実取調の結果をもあわせて検討しても、これを認めるに足る証拠はないから、被告人につき収賄罪の成立を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるといわなければならない。論旨は理由がある。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三七九条、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従い更に次のとおり判決することとする。

本件公訴事実は、

「被告人は、大阪府技術吏員で、同府池田土木事務所工務課道路維持係主査として、同事務所発注にかかる各種請負工事のうち交通安全施設工事の監督等の職務に従事していたものであるが、昭和五五年一二月一九日ころ、同府豊能郡豊能町川尻三三六番地先路上において、当時交通安全施設工事等の請負業を営む山王商事株式会社に勤務していた奥村隆から、当時前記池田土木事務所が大共道路設備株式会社に発注し、同社が右山王商事株式会社に下請施工させた府道池田亀岡線ほか二路線防護柵補修工事の監督につき便宜有利な取計らいを受けたことに対する謝礼等の趣旨で供与されるものであることを知りながら現金一〇万円の供与を受け、もつてその職務に関し賄賂を収受したものである」

というのであるが、前記説示のとおり右公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡をする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官環 直彌 裁判官髙橋通延 裁判官青野 平)

別紙(一)

〔供 述 書〕

地方公務員(休職中) 松 本 貞 夫

私が今回の事件で警察官及び検察官から受けた取り調べの状況は次のとおりです。

昭和五十六年九月二十日(日曜日)

午前七時ごろ府警本部の松下孝男係長と田中刑事が突然自宅に来て、私の部下のことで聞きたいことがあると云われて西淀川警察署に連行され朝八時より夜十時過ぎまで、田坂刑事他二名の刑事により入れ変わり立ち変わりきびしい取り調べがありました。

取り調べ室は二階の約二米四方ぐらいの狭い部屋で、入口以外は全部壁で仕切られて、窓もなく天井より二十ワット程度の裸電球が一ケぶらさがつておりました。壁もひどく汚れて室全体が無気味でした。取り調べの配置は小さいスチール製の机が一ケあり私が室の奥の方に坐らされ、その前に向い合つて田坂刑事が坐り私の横に刑事が常にぴつたりつけて立つていました。入口にはもう一人刑事が椅子に坐つておりました。

取り調べはいきなり「お前そこに坐れ」と云い何も説明もせず田坂刑事は「お前えなあ奥村を知つとるやろう」私はどこの奥村かと云うと田坂刑事は「大共を知つとるやろう」私はそれは知つています。というと、田坂刑事は「去年の年末何があつた。何があつたか話してみい」私はいつたい何んのことですか、何を云つているのかわからないと云うと「おまえとぼけるな」といつていきなりどんと机をたゝき三人で続けさまに大声をあげて質問ぜめに合いました。相当長く感じました。私は何があつたか教えてほしいと云いますと、田坂刑事は「何かもろたやろう喫茶店に行つたりメシでも食つた事があるやろう」と他の二人の刑事も同じことを何度も何度も繰り返し、私が一言でも喋るとその言葉を大きな声で打ち消し、横の武田刑事が体ごと私の体にぶつかつて来ました。そして武田刑事が「お前耳があるのか、名前はあるのか」「では返事の仕方を教えてやる」と云つて私の耳を引つぱり、耳に口をひつけて大声で「松本松本返事が悪い」と何度も何度も五分ぐらいづつ少し休んでは又繰返し何度も長時間にわたつてやられました。

田坂刑事は「早く白状しろ今話すと逮捕もされず、又新聞ざたにもならない新聞の記事になつてもよいのか、今白状したら府にもだまつといてやる、何んでおまえはだまつておるのか」これを何度も繰り返し云われました。

私はそれでも私は何も知らんを繰り返しておりましたが、もう最初から私が犯人であるときめつけてどなられ私のうしろから武田刑事が、体を押し私の頭を机に押しつけ相当長い間押しつづけたまゝでした。

それでも否認をしていると武田刑事が今度は私の耳を持ち耳に口を付けて大声で「わー」とか「こらー」とか「早よう返事をせんかい」と何回となく怒鳴られました。大きな声で怒鳴られると頭の芯まで響き耳の中も痛く頭も何を考えているかわからずくらくらとなり何でもよいからこの場を早く逃れたいと思うだけでした。

そうして夕方からと思いますが、まだ否認をし続けていると今度は「身体検査をやつてやる、持ち物を全部出せ」と云つてチェックされました。田坂刑事でした。そのあとで田坂刑事は「お前のことはわかつた、いいやり方がある、体に聞いてやる」と云つて私の前の机をのけてしまい、「お前わしの近くに来い」と云い「お前の膝をわしのこゝに入れよ」と云い私のうしろを武田刑事が押し田坂刑事が股を広げて私の足が田坂刑事の股の間に挾まれた形になりました。私は何をされるのかすつかり脅えておりました。

田坂刑事は、しばらくそのまゝの状態にしており、「お前震えとるなあ、これは何かあつた証拠や早よう云え」と何度も云われました。田坂刑事は「そしてお前の家の財産など調べてやる、どうして家を建てることができたか。お前の給料だけで買えるはずがない。徹底的に調べてやる大変なことがでるぞう」貯金通帳の話がでて「入金の問題業者の誰かに振込ませている。お前の給料とボーナス以外の収入があるのはおかしい、何年も前から調べてやるそんなことにならんように早くもらつたと返事をせよ」といいました。私は貯金通帳の収入などははつきりしているから説明できますと云つていたのですが聞いてもらえませんでした。この日は午後十時ごろになつてようやく帰宅を許されました。

警察の調べは始めてで、窓もない室で昼夜の区別もわからず本当に長時間始めての経験で恐しい思いをしました。そして帰る際に松下係長から「職場に帰つても今日のことは誰にも云うな、云うと証拠湮滅罪でやつけてやる」「明日は平常通り勤務せよ、職場にはちやんと見張りを付けてある誰かに話したかどうかわかるぞ、そのときはすぐ逮捕する、お前の奥さんにも親戚にも話すな、そのときはすぐ逮捕するわかつたか」と云われ何度も念を押されました。

そして松下係長は「そのうち又調べる」と云いました。取調べ中私は昼と夕方便所に行つたのは二回でしたがその際便所の中まで刑事の見張りがおりました。帰りは能勢電車の最終でした。

昭和五十六年九月二十一日(月曜日)

通常通り出勤をし勤務をしていますと、午前十時ごろ府警本部の松下係長より電話があり「すぐ公衆電話より電話せよ」とのことで私はすぐ一階の公衆電話まで行き電話をしたところ「これで捜査が終つたのではないぞ昨日のことは誰にも話してないな」と云われました。しかし私は身に覚えのないことで警察に取調べを受けていることが納得できないので、上司である松尾工務課長にだけ、昨日の警察でのことを話し、そして全く身に覚えのないことですどうか信じて下さい。と報告しました。

昭和五十六年九月二十六日(土曜日)

早朝七時ごろ犬の散歩をして帰つたところ松下係長と他一名の刑事が自宅の付近で自動車で待つており行先は云わずに「調べがあるからすぐ用意せよ」と云つて家の中まで入つて来て、東住吉警察まで連行されました。そして調べ室は、二階の二米四方の部屋でした。やはりスチール製の机があり入口より奥に私が坐り田坂刑事が正面におり他二名でした。そして前回よりも激しく尋問がつゞき、入れ替わり立替りせめられ田坂刑事から「奥村よりお金をもらつたやろう」と大きな声でどなられ、私がもらつてないと答えると田坂刑事は「どこか食堂で一緒に食べたのではないか」とかまた「喫茶店に行つたのではないか」と他の刑事も同じ質問を入替り立替りこのような繰り返しがつゞきました。そして田坂刑事から「同僚は白状した。お前も早く話して楽になれ」とか「奥村は金を出したものがなんで掴まるんですかとおこつているぞ、金を出した奥村にどうして詫びるんや」田坂刑事より「今日は最初から逮捕する予定だつた」と云われましたが、私が終始もらつていません、何も知りませんを繰り返すと田坂刑事が「お前はそんな事しか云えんのか」と云い、「返事が出来るようにしてやる」と云つてまた私の名前を耳もとで何度も呼び一回五分ぐらいつづいたと思います、それが何度となく繰り返されたそのつぎに「金はもらつた、もらつてる」「返事をせよ」「松本、返事」といつて、私の名前ともらつたもらつているを何度も繰り返し繰り返しどなり、私の返事が遅れると武田刑事がうしろから私の肩や頭を握り拳で叩き、体ごとぶつかつて来ました。

私が終始もらつていません、何も知りませんを繰り返すと田坂刑事が「お前はそんなことしか云えんのか」と激しくどなつて調べに使用している私の前の机をいきなりのけて、私一人椅子に坐り、その周囲に立つている三人の刑事から、かわるがわるひざや、黒の皮靴で私のももを蹴り上げられ、特に武田刑事には、体ごとぶつかり壁までぶつ飛ばされ床に何回も倒されました。すぐに又椅子に坐れと誰も助けてくれるものはなく何度もやられました。

調べで絶対もらつてません、絶対という言葉を使つただけで長い時間激しくおこられました。私は何んとかこの場から逃れたいと思う気持だけでした。今日はもう家に帰してもらえないのかなあと思つていました。

私自身警察というところに絶対の信用を持つておりました。とてもこんな調べをするとは考えもしてませんでした。この有様をみて誰かに助けてほしいと思う気持しかありませんでした。

実際こんな調べを受けたものでないとわからないですが一日朝八時より夜十時過ぎまで何日も過ぎたような気がします。

午後十時を過ぎたころ松下係長が来て、私に向かつて「お前は何んと往生ぎわの悪い奴や、助かりとうないのか警察に来て絶対という言葉を使つたらあかん、どうかわかりませんというたら殴られたりおこられたりせえへんのや」「警察に来てもやはり要領が大事や、知らんもらつてないばつかり云つても前に進まん、もつと違うことが云えんのか、今日のところはわしが教えてやろう、文章もはつきり書かんでもよい、もらつたかどうか思い出しません、思い出して話しますと云えばええのや」「お前は家に帰りたくないのか、いつまでもこんなところにおつていいのか、家族や子供がかわいそうと思わんのか、お前もこれが始めてでわからんやろう、わしがうまいこと書いてやろう」と云つて松下係長が調書を書き、私の手を持つて無理矢理サインをさせられました。

松下係長はサインをしたら帰してやると云つていたので私はこれで家に帰れる、明日の子供の運動会に行けると思いました。ところが松下係長の態度が急に変り、これから本部に行くからと云つて写真をとられ署をでるとき手錠をかけられ自動車で府警本部に連行されました。

途中松下係長より「お前がはつきりもらつたと云わんから逮捕されたんや、同僚の神舎も気の毒と思わんか」と云われました。それで私は明日からの調べは今までの取調べよりもさらにひどくなるのかと不安でした。

結局その日は朝八時より夜十時半ごろまで連続して調べられ途中水も飲めず、便所も二回しか行きませんでした。

昭和五十六年九月二十七日(日曜日)

取り調べの際、田坂刑事から「警察での留置期間は四十八時間でこの時間内に自白すると早く留置場から出してもらえる、あと一日あるから早く云え」と何度も迫られました。田坂刑事から「午後より検事さんのところえ行く、そのときは現金を受取つたとはつきり云うように」何度も教えられました。

すつかり昨夜からの恐怖が抜けきらず、誰にも相談するものもなくもう何を云つても駄目とあきらめざるを得なかつたのです。

田坂刑事から「お前のことはもう新聞にも大きくのつた、テレビにも何度も写つている。お前の役所も大さわぎをしているぞ大悪人の役人となつているぞ」と教えてもらい、でも私は実際にもらつていないので真実はいつかわかつてもらえると思つておりました。

午後より検事さんのところえ行きましたが常に刑事が横についていたのでもらつていないと本当のことが云えず、午前中に刑事に云われたとおり、まだ思い出しませんと云いました。その後また府警本部に戻つて取調べがあり田坂刑事から「同じことを繰り返していても前に進まん、何か変つた事を云え、別の二人も困つている、助けてやる気にはならんのか、二人とも何で松本さんは早く云つてくれないのかと云つている」と云われました。

夕食のあと、午後十時過ぎまでどの刑事か思い出せませんが、刑事から壁に体をぶつけられたり頭を手で横打ちされました。仙石刑事と田坂刑事から何度も厚さ四センチぐらいの役所の設計書で頭を殴られました。又仙石刑事は、「こらこのゴウトク役人いいかげんな事を云うな」といつて私の左足のモモとスネのあたりを黒の皮靴でけられ、ヒジを使つて私の頭を殴りました。仙石刑事に足でけられて、私は何度も床に倒され、すぐもとの位置に戻れと命令され、そしてまた蹴り倒されるということが繰り返されました。私の右側の七十センチの距離にある壁に何度もどんと大きな音を立ててぶつけられました。

そのほか、仙石刑事から、耳もとで「松本」と大きな声で何度もどなられ、「お前のようなやつは死んでまえ」といい私の耳を引つぱりながら「もらつたと早よう云え」と何ども大きな声で叫ばれました。そして十時過ぎ留置室へもどると同房の森という人が先に私のふとんを敷いてくれておりしばらくは声をかけずに私がはいていたトレーニングズボンに汚れがついているのをみて「だいぶ長かつたなあ今日もやられたんかどうや体は大丈夫か負けたらあかんで」と小さい声でいつてくれました。そして森という人も十二日間程痛めつけられ腰をやられ診療所に通つたということでした。その夜はどうして潔白を証明したらよいのか恐怖とくやしさで眠れませんでした。

昭和五十六年九月二十八日(月曜日)

午前中、裁判所に行きました。私は裁判官には、はつきりとお金は受取つておりませんと云いました、それは事実ですかときかれたので、私はこれまで奥村と一度も飲食したこともありませんと云いましたが、結局勾留され接見禁止となりました。

夕方六時ごろより取調べがあり、田坂刑事は「お前は裁判所で何んと云つた。お前の罪はこれで裁判所でも認めた、どれだけ一人で反対をしても何にもならん、誰も信用するものはない。さらに十日間の延長もお前が裁判所に行かなくても認められる。警察というところはなあ確かな証拠なしで逮捕することはない証拠は皆揃つている」「お前という奴は卑怯な奴や卑怯な人間になるな、他の人に迷惑をかけるな、お前はそれでよい、いつまでも留置所にはいつとけ、しかし家族はどうする何も罪はないぞ他のものを一緒に引つぱるな」と次第に激しい口調になり、二人の刑事(田坂、仙石)がまつかな顔をして怒り(取調室二十三号は二階にあり二米四方の狭い室でスチールの机があり取調べ用の丸い椅子があり私の後ろに窓が一つあります。田坂刑事は私の前の机を挟んで前に坐り仙石刑事は横におりました。)、横の仙石刑事がいきなり私の頭を握り拳で殴り正面からは、田坂刑事が頭を出せと云つて何度も、私の頭を手で殴り額を押し、仙石刑事は何度となく黒い皮靴で私の足を蹴りつけ、又膝で私のももの辺りを蹴りつけ、横から私の肩をどんとつき、私はそのたびに坐つたまゝの姿勢で右側の壁に倒されました。

それでも私は黙つて丸くなつていました。そのうち田坂刑事が真赤な顔で「お前、人はどうなつてもよいのか、蛍池高架下の工事(昭和五十五年に地元民や豊中警察署、豊中市から高架下での諸車のUターンを車止めを作つて防止してほしい、と何度も強く要望があり、そのため池田土木事務所では期間の都合で、昭和五十五年度事業で行うため担当者全員で協議の末とりあえずガードレール工事として予算を計上して設計上は実際工事を行つたものとして扱いUターン防止工事をしたこと)では何があつた、ほんとに工事はしたのか」とものすごい勢いですごんで来ました。さらに田坂刑事は「上司はみんなこのことを知つとつたのか、ガードレールは何をしたんや本当に工事はしたんか、書類はあるやろう」私はありますというと、田坂刑事は「同僚の皆に迷惑がかかつてもええのやなあ、職場に手錠をかけてつれて行つてやろうか、お前の子供の行つている小学校に行けんようにしてやる」といつておどかされ、「このニ重人格あかんたれ」とののしられました。

私はただもうどうしていいかわからなくなり、私は奥村からお金はもらつていないが同僚の迷惑になるのでは困ると思い弁護士に相談してみようと思い相談したいことがあるので弁護士さんをつけてもらうように家内に連絡して下さいとお願いしたところ、田坂刑事は「何を相談したいんやわしら両刑事を信用しとらんのか」と怒り、私がさらにお願いしますから弁護士さんを頼んでほしいと何度もお願いしますと、田坂刑事は「本当はこんなことは出来んがそれで事件が早く終るなら協力してやろう、その変り金はもらつたと云え」と云われました。

私が弁護士さんに相談してから返事をしたいといつても、田坂刑事は「今日は待てない、今日中に自白すると四十八時間の警察留置ですむんや、まだ時間がある。保釈も早くなる」と云われ、私は子供の学校のことを云われたことと、職場に手錠付でつれてゆくといわれたこと今度の事件のことを弁護士さんに相談をしたいという気持から、何が何か考える力もなくなり、ついに田坂刑事のいいなりに奥村からお金をもらつたことを認めました。留置場に帰つても割りきれない気持で苦しみました。しかし真実は必ずわかつてもらえると信じていました。

昭和五十六年九月二十九日(火曜日)

午前中入浴があり(毎週火曜日入浴日)フロの掃除をしたのちすぐに取調が始まりました。

今日の取調べは昨日終りに私が認めたため気持が悪い程田坂刑事の機嫌がよかつた。

午後の取調中初めて弁護士さんが面会にみえました。時間が十五分と短く充分なことを話せませんでしたが、私がお金はもらつてないが昨日認めてしまいました。と云いましたところ、弁護士さんは「したことはした。してないことはしてないと本当のことをいいなさい。貴方の家族も元気にしているんで安心するように」云われました。

それで面会後再び取調べがあり、そのとき私は、「昨日認めたことは間違いです。取消して下さい」と云いましたところ、田坂刑事は「せつかく弁護士を世話してやつたのに何んと云う奴か、弁護士に何を云われた、云つてみい」私は本当のことを云うようにと云われました、と答えますと、田坂刑事は「こんなことなら会わすんではなかつた、お前のような奴は次から会わさんぞ」と云われました。

私はもうどうなつてもよい。どれだけ殴ぐられてもがまんしようと思いました。こんな恐ろしいところがこの世にあつたのかと身振いしました。田坂、仙石両刑事ともどんどん言葉も荒々しくなり、顔も真赤になり、田坂刑事が「弁護士は何を云つたか知らんが刑を決めるのは刑事の仕事や私の筆一つでどうにでもできる」私の顔を睨みながら云いました。机をたたきながら激しく「弁護士が何を云つたか本当のことを云つてみい」とどなりものすごいけんまくでした。田坂刑事は「わしらは弁護士も引つぱることができるぞ、わかつたか、この事件と弁護士とは何も関係ない、家族との連絡だけをしておればよい。この事件の内容のことを弁護士は何も知らん、お前はどちらを信用するか、考え方を誤ると大変なことになるぞ、お前はよい、しかし蛍池高架下工事で同僚はどうなる、よく考えておけ」と云つて夕食になりましたが呼出しのブザーの音を聞くと刑事の顔が浮んできました。

午後六時ごろよりまた取調べがあり田坂刑事より「よく考えたか」と云われ、その日は最後までもらつてないと否認をしました。何度も同じことを繰返しました。その間に仙石刑事から「この馬鹿もの死んでまえ」と云いながら、何度も、皮靴と膝で私のももをけられ、私はそのたびに床にころげさせられましたがなお、この日たしか午前中であつたと思います、私の同窓の森よりの伝言として、井上班長(学校の同級生の森と井上班長とは前よりの知人という関係)が調べ室に来て、第二の人生の出発として就職の世話はちやんと責任を持つてやるから早く認めて第二の人生を歩むようにと伝言がありました。このときは誰にも頼ることができずおもわず涙が出ました。実際に会つて真実を話すことができたらどんなによいかと思いました。このとき森から一万円を使用してほしいと差入れがあり田坂刑事が預つておりましたがその一万円は後日私が現金書留で森氏本人に返しております。

昭和五十六年九月三十日(水曜日)

毎日の取調べの連続で日々がものすごく長いように感じられ、このころには勤務先のこともずつと昔何年か前のことの様な気持になつておりました。

田坂刑事から「昨日はよく考えたか」「螢池の髙架下の追加工事は、警察でも調べた結果、あれは公文書偽造の罪になる」と云われさらに「他の人の迷惑になつてもよいのか、お前はそんな人間かそれならそんな人間としてあつかうぞ公文書偽造がどんな罪か知つているのか、手錠をかけて職場につれて行つてやろうか、これから後もお前は友人同僚からも見離され何年刑務所に入れられるか知つているのか十年は入れられるぞ」といつて脅され、私はただ同僚だけには迷惑はかけられないという思いが強く、またお金を受けとつたことを認められました。そして受取現場の状況などは私には判りませんので刑事の方から細かく何度も教えられそのとおり図面等を書かされました。私はお金を受取つたとされた場所は工事現場でありましたので大体の状況は知つていましたが、自動車の置き場所については何度も注意されおこられながら書きました。

石積の横に側溝のあつた事は知りませんでしたので教えてもらいながらやつと書きました。田坂刑事は私に「奥村は正確に知つておつたぞ」とか「もう少し横」とか「自動車の形が違うぞ」とか云われました。私は自動車というので普通乗用車かと思つていると田坂刑事は「ライトバンと違つたかこういうように書くんや」と実際に書いてみせてくれました。私がサインするのをいやがるのを無理矢理に書けと云つて高圧的に書かされました。

田坂刑事がお金の授受場所のことを書くときには私の説明なしにどんどん自分で書き私の顔を時々みながら何度も書きなおしており何かばつの悪そうな顔をしておりました。

昭和五十六年十月一日(木曜日)

明日刑事とお金を受けとつたとされている現場に行くことになつていましたので今日の取り調べで昨日写真をとつて来たといつて写真をみせられ仙石刑事から「これが高山の例の現場やろう、この写真にも写つている通り自動車の助手席の方には石積があり、また大きな側溝がありこの位置からは車の助手席に乗れない、やはり奥村の云つているように一たんUターンしてからでないと乗れない。お前は自動車の後部に立つており、そして車に乗るまえに奥村が近づいてその位置でお金を渡している」と現場の説明があり、そして仙石刑事が「この位置で明日現地で写真をとるからよく覚えておけ」と云われました。

昭和五十六年十月二日(金曜日)

午後より現場に行くその前に再度昨日と同じように仙石刑事より現場の説明を受けました。

手錠をかけられて現地に行き、仙石刑事が運転をしておりました。私は何も説明せずにおりましたが、仙石刑事より「どうややはり車は奥村が云つているように止められるやろう、出発の際も一回で廻れるやろう」「奥村は一たんUたーんしてからでないと廻れないと云つていたがわしは一回で廻れる、うでが違う」といつていました。

そして仙石刑事より「現場の写真を写すので車の横に立て」と云われ、私はあらかじめ教えてもらつていましたので車の止めた横に背中を道路側に向けて立つておりました。田坂、仙石両刑事は写真をとつたり距離を測つて記入しておりました。私はこれまでの取調べでおどかされたり殴られたりで本当のことが云えずもうすつかりあきらめて、たゞ黙つて立つておりました。

このような手錠をかけられた姿は誰にもみられたくありませんので少しでも早く終るのを願つておりました。

昭和五十六年十月三日(土曜日)

午前中刑事の取り調べがあり、午後より検事の調べがあるということでしたが、昼前に弁護士さんが面会に来られ、私に弁護士さんが「刑事さんには本当のことを云えなかつたが、検事さんには本当のことを云わんといけませんよ」と云われました。

午後検事の調べ室に連れていかれる途中田坂刑事に、検事さんにはお金をもらつていないと本当のことをいいますよ、といいますと田坂刑事は「何を云うのか」と云い、引き返して二十三号室まで戻り、田坂刑事が「何を云うつもりか」と聞いたので現金を受取つてないことや蛍池高架下の件で無理矢理云わされていることですと云いますと、田坂刑事はこわい顔して大きな声で「勝手にしろ」と物凄いけんまくで云いました。

一階の検事室に行きました。二十三号調べ室より倍以上の広さがあり机も木製の大きなものです。もう一つは事務官用のスチール製の小型の机でした。

検事調べのとき検事さんが入口に近い方で静かに坐つておられました。私一人で入りました。

検事さんは「現金は受取つたのか」と聞かれ私は現金は受取つておりませんと検事さんの目をみてはつきりと話しました。しばらく両方ともしーんとしておりました。そして私は裁判官にもはつきり現金は受取つておりませんと云つております。と検事さんに云いました。しばらく沈黙がつゞき検事さんは「では警察の調書になぜサインと図面を書いたのかね、警察で多少きつい調べがあつたかも知れんが君が書いたのと違うか」と云われました。

私は警察でいわれた高架下工事の件(昭和五十五年に地元民や豊中警察の高架下での府道の諸車のUターン禁止のための車止めを作つてほしいと何度も強く要望があり、そのため池田土木事務所では期間の都合で昭和五十五年度事業で行うため担当者全員で協議の末とりあえずガードレール工事として予算を計上して実際工事を行つたものとして扱いUターン防止工事をしたこと)のことで上司また同僚の皆に迷惑がかゝるのを恐れ最後まで検事さんに本当のことを話すことが出来ず残念でした。検事の調べは一時間程で終り、再び田坂刑事の取調べがあり、今まででも一番憎しみをもつてものすごく怒つた顔で、田坂刑事は「こらお前、検事になにを云つた。なんで金をもらつてないと云つたのや」そして「がんばると云つたそうやなあ」と仙石刑事と交代交代に大声を出して耳もとで耳がいたくなり、こまくがやぶれるほど大声で「こら」とか「松本この二重人格死んでまえ」と叫ばれ頭の中がじーんとひびき、手で耳をふさぐと仙石刑事は「この手を引つこめよ」とどなつて私の手を払いのけ、横や正面から厚さ四センチ位の設計書で私の頭を殴り、さらに仙石刑事が皮靴で私の足を蹴つたり、机に頭をぶつけたり、後頭部をなぐり、頭を手でおさえつけ正面から田坂刑事が設計書で殴るなど、そんなことが何回も繰り返されました。頭がぼーとしてくらくらしました。

それが終ると、仙石刑事が今度は耳を強く引つぱつたり、私の体を押して右側の壁に何度もぶつけ、私が壁に手をついて体をささえると仙石刑事は「その手をおろせ」と大きな声で叫び、その手をたたき落とし、田坂刑事は、「この二重人格、精神異常者、接する奴がみんな迷惑する」とののしり仙石刑事は「オマサンのようなごうとく役人」とどなりました。

私はじつとうずくまつて我慢していました、五時の食事を知らせる電話があり取り調べは中断となりましたのでやつと救われました。

六時ごろよりまた調べが始まりましたが、初めのうちはこわい顔してにらんでおりましたがさらに怒りがひどくなり田坂刑事にびんたを喰わされ、仙石刑事に足蹴りされ、おもわずうずくまると、また仙石刑事から「立て」といわれ、もとの位置にすわらされ、繰り返し殴られました。それは食事前よりひどくなりました。今日は死んでも本当のことでがんばるぞと思いました。時間は覚えてませんでしたがとにかく二人の顔もかすんだようにみえ何も考えられなくもらつてないもらつてないと云つてたような気がします。最後に田坂刑事が「明日チャンスをもう一度やる朝まで寝ずに考えておけ」と云つて終りました。

今日の取調べは大きな声でしたので留置所に帰ると同房の森が「すごかつたなあ、大きな声でおこられていたなあ、こゝまで聞こえていた」と云つておりました。

翌朝体操の時に他の房の人も同じことを云つておりました。

昭和五十六年十月四日(日曜日)

朝十時三十分ごろ取調べ室に入るなり、田坂刑事が「昨日捜査二課長にも話しが出来ており、別件逮捕ということで了解を得た」と云いました。

そして「今より調書に書くので、お前はサインしてもしなくても、逮捕はできる。府としてもだれかを告訴するだろう。もう昨夜遅く会議で決つたので止めることはできない、名目は、公文書偽造が成立する。お前は二つの罪を負うことになる、奥村にも了解をとつて決行する、奥村自身できればやめてほしいといつていた、お前にはもう何を云つてもわからない、弁護士も離れる、いゝなあ」と云いました。

この間私は何も口をはさむ事もできずたゞ呆然として説明を聞いておりました。私は大変なことになつたなあと思つた。

さらに田坂刑事は「多くの人が迷惑をこうむり又新聞に書かれ、その時お前は二度とその辺を歩くことはできないぞ、同窓の友人も同僚も相手にしないだろう」と云いました。私は大変なことになつたと、もう気持も動転してしまつて何んとか同じ職場の他の人の逮捕をやめてもらい、今の私のような立場になつては大変と思い今からでは謝つても駄目ですかと云いましたところ、田坂刑事は「もう私の判断では、駄目だ」と云い、さらに私がなんとかなりませんかと云いましたら、田坂刑事は「もう気持は変えたくないが、他の人のことも考えて一度班長に相談して来てやろう」と云つて取調室を出て、しばらくして、井上班長を呼んで来ました。田坂刑事が「駄目やと思うが班長にあやまれ」と云いましたので、私は一生懸命になつて床に土下座して謝りました。両刑事とも「もつと頭を下げろう」と云いました。

私は、私自身はどうなつてもよい。皆の責任を全部かぶりますからそのかわり高架下の問題は私個人ということにして下さい、とお願いしました。井上班長は「現金の受取りは別ということは云わさんぞ、いいか」と云いましたので、私は仕方ありませんと云いました。

井上班長は「他に余罪があると思うが、もうこれも全部吐いてなり行きをみて許してやる、このことは私の胸の中にしまつておこう」と云われました。そして井上班長は田坂、仙石両刑事にこのことを調書にかいて本人にサインをさしておくようにいいつけました。両刑事はうなずいておりました。そして井上班長が室を出て行つた後、田坂刑事が調書を作成し、内容は昨日否認したことや、もう現金を受取つておりませんとはいいませんという調書などにサインさゝれました。

その後に検事の調べ室に入り、検事さんより「昨日はもらつてないといい、今日は認めるのはなぜかね」といわれました。私はそのいきさつを話すと後ですぐその結果が刑事のところに報告があるのを知つているため本当のことが云えず、何も云えずやつと一言私は云いたいが胸のうちにしまつておきたいんですと云いました。調べの途中現金の授受について色々くわしく聞かれましたが身に覚えがないためはつきりした事が云えず検事さんは「もらつたならそのぐらいは覚えているはずだが」と何度も検事さんと事務官は首をかしげておられました。

そして検事さんが「直接現金を受けとつたのかね」とたずねられ、私は小さい声ではいといいました(このことはまだ刑事の方より聞かされていなかつたため)。

検事さんは激しく「現金はそのままであつたか封筒であつたか」と聞かれ、私はしばらくして封筒と云いました。「現金は新ぴんか古さつか」と聞かれまだ刑事さんに聞いてなかつたため困つたなあと思い新らしいのに決つていると思い、私は新しいと云いました。

「では現金はそのままか二つ折りにしてあつたか」これも私が想像してそのままと云いました。さらに検事さんは「普通現金は普通の大きさの封筒でははいらないと思うが、特別な封筒か」私はだまつておりました。検事さんは「現金はそのままの大きさだとポケットに入らないと思うが君のは特別の大きなポケットか」はい、この点について二回程聞きなおされました。

「では現金を受取つたのは車の中か外か」(私はもうどうにでもなれと思つていました。)私は外で奥村の方へ私が近ずいて行つたと云いました。刑事さんに教えてもらつた通り云つたはずでしたが違つておりました。そして検事さんはこの答に対し「現金を受取るについては前後があるはずだが、それまでに話しをしたとか、何もないのに直接受取つたのかね」と云われました。しばらくして私がはいといいますと「では何度でも受取つているのかね」と云われました。私はそんなことはありませんというと、検事さんは「君は人ごとみたいにみえるがいつもそんなか」事務官もうなずいておられました。

検事さんは「そんなことはまあいいが封筒はどこであけたのかね」といわれ、こんなことは何も考えてなかつたものですから困つたなあと思い始め、事務所の中でと云いましたら「他の者がみているのと違うか、どこか一人だけは入れる場所でもあるのか」と云いました。

私は特にありませんといいました。「他の場所であけたのと違うか」と云われましたので、私は食堂と云いました。どこの食堂か、私は少し考え事務所の前のグリーン食堂と云いました。「他の者がみているのと違うか」私は一人でしたのでそこであけましたと云いました。私は本当に残念でした、こんないやな気持はありません、本当のことが云えたらどんなによいかと思つておりました。

「現金だとわかつたら返そうという気持にならなかつたか」、だまつておりました。「年末ならボーナスもあつたのではないか」私は小使いは何時も充分持つていましたといいました。

さらに「君は通常酒などはよく飲むのか」私から人をさそうということはありません、又一人で飲みに行つたこともありません、といいました。

検事さんは「最後にもう一度聞くが本当に現金を受取つたのに間違いないか」と聞かれました。

検事さんは今日の調べのことをノートに記録しておられました。その日は終わりました。

昭和五十六年十月五日(月曜日)

今日は現金十万円についての使用先調べがありました。私は現金を受取つていないので使い先がありませんでしたが、私が競馬に使つたことにしましようかと云いますと、田坂刑事は「それでは聞くが買い場所と馬の名前など云つてみろ」といいましたが、私が知らないため駄目でした。田坂刑事は「検事さんに聞かれたら一辺にばれるぞ」といいました。

「旅行か大きな購入品などないのか女性関係はないのか」と云いましたが、私はないと答えますと、田坂刑事は「実際に行つている飲み屋かクラブか付けのできる店はないか、どこでもよいから書いてみい」と云われ昨年から私が実際に自分の小使いで使用した大衆店すべてを書かされました。

昭和五十六年十月六日(火曜日)

今日の取り調べは刑事のいうとおりすべて認めておりましたので刑事の機嫌もよかつた。

昭和五十六年十月七日(水曜日)

今日も午後の調べが終り夕方五時前弁護士さんが面会にみえ「検事さんには本当のことを云いましたか、検事さんには本当のことを云えるでしよう。」と云われましたので、実はもう駄目です、本当のことが云える状況ではありませんといいますと「では私が一度検事さんに話してやるから」と云われました。「でも後からがこわいんです」といいますと「殴られましたか」ときかれたので「大変なものです」「高架下の件があるから駄目です、他の人を逮捕すると云つていました」「その件で金を受取つてないんでしよう」「はい」「実害関係もないんでしよう」「はい」「それなら心配することはありません、では一度検事さんに云います」「こわくてどうにもなりません」「では裁判で争いますか、しかしいつたん認めると大変ですよ」「仕方ありません」「何もしてなかつたら職場にも帰れるんですよ。もつとしつかりせんといかんですよ、奥さんも心配していますよ。」というやりとりがありました。その後食事となり、六時過ぎより取調べがあり、田坂刑事がいきなり調べ室に行く廊下の辺から私の肩を押し、「おいおい何を云いやがつた」とうしろからも背中を押しながら調べ室につれて行かれました。

先に仙石刑事が室の中で待つていました。室に入るなり田坂刑事が「お前弁護士に何を云つたか話してみい」「殴られたとか脅迫されたとか、何時殴つた、うそを云うな」と私をどなりつけました。私はたゞだまつておりました。

「私らは、検事さんより上司に六時ごろ連絡があり、いつたいどんな調べ方をしているのかと聞かれた、無茶をしているのと違うかと聞かれた、お前の一言でわしら二人がどんな迷惑するかわかるか」とものすごい強く大きな声でおこられました。私はじつと歯をくいしばつておりました。

先程私が弁護士さんに話したことを弁護士さんが検事に連絡をされたからだと思いました。

田坂刑事はお前のような奴には調べはもうしてやらん、といつて横を向きいつまでも留置場にはいつておれと云いました。仙石刑事から「お前の顔はみたくない」といつて壁の方向に向いてずつと坐らされました。少し体が傾くと仙石刑事から「姿勢を崩すな」といつて何度もおこられました。相当長時間で背中と首が痛くいくら姿勢を正そうと思つても横の方に傾きました。そして終りごろに仙石刑事から「お前明日すわるのと立つのとどちらがよいか」と云われました。私は何んのことかわからずすわる方がよいですというと「よしそれでよいなあ」と凄味をきかして仙石刑事がいいました。私は明日何をされるのか不安でした。

昭和五十六年十月八日(木曜日)

朝より取調べがあり、私は今日は何をされるか不安でした。田坂刑事が「昨日の件をよく考えたか」と云われました。それでも黙つていますと、田坂刑事は「わかつた今から調書を書く、お前はそこでみておれ、わかつたなあ」と云つて調書をボールペンで書き出しました。

私はじつとみておりました。収賄ではなく、公文書偽造、公金横領と調書に書き出しました。机の上に設計書を出し私にはもう何も聞かずに設計書の各氏の捺印の名前をみながら関係者は渡辺所長、松尾工務課長、亀田係長、松本、杉村、若菜、落合の七名でした。

文章を書き終ると田坂刑事は「お前サインしろ」とすごみをきかして云われました。

私はしばらくは黙つておりましたが、私はもう精神的にも肉体的にもすつかりまいつておりました。また法律的なこともわからず、もし本当だつたらどうしようとこの判断がどうしてもわからず、私はもう観念しました。そうしますと、田坂刑事は「以後絶対に変りませんという文章を書け」と云つて調べに使用する用紙一枚と黒のボールペンを渡され田坂刑事の云う通り念書を書きました(その後取り調べ室の入口より右側の壁に私の書いた、以後絶対に変りませんというこの書面が常にみせしめのためにはつてありました。)。

田坂刑事は「さつきの調書にサインしろ」と云われました。私はできないと云いますと「これから先、調書を進めない、当然保釈もきかない、検事の権限として三ケ月ある、拘置所に行くことになるが、そこから調べに引つぱり出される、それでよかつたら、そのまゝにしておく、わかつたか、サインしろ」と云われて私は実際留置場にいるものが半年以上もたつているものもおりましたし、実際同房の森氏も四十日以上もたつておりましたのですつかり田坂刑事のいうとおりにされると思い込んでしまいました。結局私はもうわからなくなりこの先が不安になりサインさゝれました。そのあとで田坂刑事は「誰にもみせず私が持つておく」と云われました。

それから弁護士さんに話した殴つたのと脅迫はうそでしたという文章を田坂刑事が書きそれにもサインさゝれました。それと田坂刑事より「この際うそ発見機もかける」といわれ、捜査二課長あてに印刷した用紙を渡され私はもうやつて下さいといつてサインをしました。実際には調べを受けている机の引出しにしまつておかれうそ発見機にはかけられずじまいでした。その後検事調べがありました。私の今までの供述がよく変るので検事さんは大変おこつて「一たいどうなつているんかね、心境を聞きたい」といわれ、私は何も聞かないでほしいと云いました。しばらく沈黙がつゞき、検事さんは「もう変らないかね」といわれました。私は、もう先程田坂刑事が私がサインした蛍池工事の関係の調書をもつていますし、すつかり観念して、はいと答えました。それ以後は両刑事の取調べに抵抗することをあきらめました。

右のとおり相違ありません

昭和五八年七月一日

松本貞夫

弁護士 鶴田啓三殿

同   竹澤一格殿

別紙(二)

月日

出入監の時刻

(時・分)

出入監の理由

(取調状況)

作成された供述調書等

備考

9.26(土)

入23・25

弁解録取書(員)

逮捕(22・10)

9.27(日)

10・55~12・03

13・12~17・12

18・15~22・10

取調

現留、取調

取調

員面(身上、経歴等について)

弁解録取書(検)

9.28(月)

9・35~16・43

18・0~20・15

勾留

取調

勾留質問調書

勾留(15・30執行)

9.29(火)

10・40~12・0

13・20~16・55

18・30~19・43

取調

員面①

弁護人第一回接見

(13時過ぎ)

9.30(水)

9・50~11・57

14・05~17・05

18・20~20・20

取調

10.1(木)

9・50~11・55

12・55~16・50

17・25~18・25

取調

員面②(9/30付図面添付)

10.2(金)

10・0~11・59

12・30~17・0

18・10~19・53

取調

取調、実況見分

取調

10.3(土)

9・50~11・20

12・50~16・58

17・50~21・0

取調

弁護人第二回接見

(11・0から12・0までの間の

15分)

10.4(日)

10・30~11・58

13・20~17・0

取調

員面③

員面(当審検14。供述

変転の理由について)

10.5(月)

9・40~11・50

13・05~16・58

18・01~20・15

取調

取調、検事調

取調

員面(職務権限について)

10.6(火)

13・10~17・02

18・10~19・58

取調

検面⑨

10.7(水)

9・55~12・0

13・17~16・50

18・0~21・40

取調

勾留延長(10/17まで)

弁護人第三回接見

(16・0から17・0の間の15分)

10.8(木)

9・35~12・0

13・45~17・0

18・20~20・40

取調

員面(螢ケ池髙架下工事に関

する公文書偽造、同行使

、詐欺事件のもの)

員面④

10.9(金)

9・50~11・35

13・20~17・05

17・30~20・50

取調

取調、

検事調

検事調

員面⑤

員面(10/7弁護人接見の際

否認した理由など)

10.10(土)

13・05~16・55

取調

10.11(日)

10・07~12・0

13・07~16・57

取調

員面⑥

10.12(月)

9・35~11・52

13・05~17・0

18・15~19・55

取調

員面(螢ケ池髙架下工事に

ついて)

10.13(火)

13・0~16・40

17・45~19・40

取調

取調、検事調

員面⑦

10.14(水)

9・15~11・45

13・15~16・55

17・45~23・25

取調、検事調

検面⑩

10.15(木)

10・0~11・50

13・05~15・45

18・40~20・40

取調、検事調

取調

取調

検面(当審検16―犯行日時の

特定について)

員面⑧

弁護人第四回接見

10.16(金)

19・14~22・50

検事調

検面⑪

10.17(土)

17・55~18・45

検事調

起訴

10.18(日)

13・40~15・10

取調

10.19(月)

13・20~15・40

17・45

取調

保釈

保釈決定、釈放

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